わたしとつながる、叡智とつながる

〜 目醒めのキャリア発信者・柏葉綾子のブログ

愛の密度

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先日、修了生向け研鑽会で「今ここの愛の密度が全てを決める」という話をしていました。
情熱を以って探求されたもの、細部まで心を込めて仕上げられたものは、愛の密度が高く、その奥行きが人に伝わるものである、という話でした。

同時に、以前北欧で感じた豊かな暮らしというものは、本当はこの「愛の密度の違い」だったのだろうな、と感じるようになりました。何でもない暮らしが豊かに見えたのは、彼らが日常生活を愛していたからなのです。

人生は何でもないことの連続です。でも、その何でもないことを豊かに楽しむ感性がある人にとっては、何でもない日常が豊かなのです。

先日、フィンランドを舞台にしたこちらのアニメを見ていました。
昔の作品だからかもしれませんが、特別な事件は起こることなく、ただ淡々と毎日の仕事をこなす日常が描かれていました。
そしてそんな展開を見て、人生の大半はこうした時間であり、そんな何でもない日常が豊かな時間なのだろう、と感じる自分がいました。
 
わたしが子供の頃は、田舎暮らしは退屈であり、だから昔は多くの若者が仕事だけでなく新しい世界を求めて都会に出た、と云われていました。
そう、田舎暮らしは見方によっては単調なんですよね。
娯楽が少ないし、何か特別なことが起きるわけではない。いつも同じ景色、同じ生活、同じ人々。意識がその檻に閉じ込められてしまい、新しい発見を見失ってしまうと、とても窮屈だと思います。
 
今は反対に、田舎暮らしに憧れて、都会を出る人たちも出てきましたね。
豊かな暮らしは自然の中にある、自分にとってもっとも自然な営みがそこにある、と感じる人たちも出てきたのでしょう。
 
この価値観の変化が、わたしたちの意識の進化発展の足跡なんだろうな、と感じています。単調や退屈は、目の前の対象に興味関心を失ってしまった時に感じるものだからです。

昔は意識が外へ外へと向かう動きがあって、現実世界でいかに沢山のものを手に入れたかが豊かさの象徴だったのですよね。
わたしたちは長いこと、沢山の刺激を求めてきました。現実生活の「刺激」を通してしか、生きている喜びを味わうことができなかったのです。
 
ただ今ここを生きる喜びを思い出した時、もう意識が過去という幻想の世界に閉じ込められてしまったり、未来という幻の時間に追われる暮らしから解放されるのでしょう。
 
直線時間から垂直時間へのシフト。
それは丁度、夏が過ぎて秋になり、秋が終わって冬になる。そんな当たり前の流れをありのままに受け容れ、夏を惜しむことなく秋を迎え、時が来たら冬さえも受け容れて生きる、そんな自然と共に生きる暮らしなのかもしれません。

自然はいつも今ここにある、だから豊かに見えるのでしょう。