わたしとつながる、叡智とつながる

〜 目醒めのキャリア発信者・柏葉綾子のブログ

経験しているのは誰?

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「見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?
たとえばあなたの答えが『もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ』なら、あなたは間違っている。ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。

(エックハルト・トール著 吉田利子訳 『ニュー・アース』の一節より)

最初にこの一節を読んだ時は衝撃的でした。
『えっ!? 柏葉綾子は経験の対象なの...!?』(てっきり私=柏葉綾子だと思っていたよ)

思考の次元を抜けることがふえた今、やっとなんとなく理解が追いついてきたように思います。(なので、急ぐ必要はないと思います)
著書には『(ジェーン・スミスうんぬん...)これらは全て思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ』と書かれているのですが、確かにアイデンティティは思考でした。
 
完全に今だけに在る時、思考を抜けた意識の次元において、わたしたちは何者でもありません。だから記憶を失うと人はアイデンティティを失い、記憶があるとわたしたちは『わたしとはこういう存在』という概念に縛られてしまうのです。
(そうすると、それ以上の自分を体験できないため、これまで思考だけを使って生きてきた時代はセルフイメージの書き換えが有効でした)

起きている間は、本来は自由な意識である『わたし』が、『私』という個人の窓を通して現実世界を体験中なのだ、と気づくこと。
目醒めていくことは、ある意味ではアイデンティティの解体を意味しており、もう少し深い意味においては真のアイデンティティの復活を意味しています。

皆さんは、ドラマ『半沢直樹』をご覧になっていますか?
(わたしは海外在住のため見てません。が、前シリーズは飛行機の中でみました)

想像してみていただきたいのですが、もし自分が本当に劇中の半沢直樹氏だったら、たぶん衝撃的なまでに大変な人生ですよね。でも、ドラマだと、ついぐいぐい引き込まれてしまう。ドラマはあのくらい極端な方が面白いのです。
 
波乱万丈な凸凹人生というのも同じようなもので、『私』は大変なんですよ。もう本当に大変!!(だった気がする)
でも、人には魂の奥底でそれをみているもう一人の『わたし』がいて、ドラマ視聴者であるそちらの自分としては、その位の方が面白いと思っていたりします。
第一この世界には、様々な体験を通して学びに来ているのであって、生活するため、人に気に入られるため、立派になるために来ているわけではないのです。

年齢とともに目醒めの深まりを経験した人は、大概『年を重ねてからの方が生きやすくなった』と感じます。若かりし頃は半沢直樹氏を熱演していたからですが(そりゃあ大変)、その必要が徐々になくなってくるからです。

アイデンティティが崩壊するなんて怖い、と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが(わたしは以前そうだったような)、崩壊というより、それらは最初から必要なかったのだと気づいていくような感覚です。
最初から何者でもなかったし、これからもそう。それは即ち、自由に自分自身を創造していいということなのです。